人間醜く生まれたら終わりなのか -エレファントマンを観て【映画】
前々から気になっていた映画を観た。
それは「エレファントマン」という映画である。
像男と訳されるとおり、生まれつき身体が像のような表皮で覆われ醜い姿をした男のストーリーである。この像男の母親は美人であったが、妊娠中ゾウに襲われてしまったことを契機にまるで呪いの如くゾウに似た子供を産んでしまったのである。
生まれてからというもの、どんな人生を彼は歩んでいただろう。
彼は珍しい動物のように扱われ、サーカスの見世物にされ、人々にいじめられ続けたのである。次第に彼は話すこともやめてしまったのである。その外見の醜さから仕事につくことは出来ず、街に出るには大きな帽子と顔全体を覆うマスクをしなければならなかったのである。
だがある時彼を救いたいという救世主たちが現れ、友達となってくれる人たちがいた。彼は一人の人間として認められたのである。しかし、彼はその喜びを得られたまま、自分で命を絶つという選択をする。
この映画を観て様々思うことがある。
それは悲しいことに、人は自分とは違うものに対して徹底的に排除しようとしたりイジメをしたりするということである。そう、現代でいうイジメみたいなものである。この映画を通して、人はイジメをしてしまうということをまざまざと見せつけられてしまった。人間は本質的にそこまで尊貴な存在ではない。
そして像男のように外見は醜くても綺麗な心をもちつづけられるということも学んだ。そう、彼は母の教えを忠実に守り清らかな心をもち続けたのである。普通、ここまで虐げられ続ければ心もおかしくなってしまうのに、彼はおかしくならず、死ぬまでその綺麗な心をもち続けた。外見が普通な人が醜い心をもち、外見が醜いけれど綺麗な心をもっているというなんとも言えない人物描写が映画では映し出されていた。
人は言う。心の醜さは外見に現れると。だが、必ずしもそうとは言えないと感じさせられた映画であった。全く逆のことも言えるのである。