【映画】天才と凡人の違い~アマデウス~

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とても音楽が美しい映画があります。

 

それはアマデウスという映画。

 

あまりにも有名な映画です。

 

アマデウスとはあの有名な天才音楽家モーツァルトのことをさします。

 

この映画はモーツァルトのエキセントリックな人間性と天才性を味わうことができます。それと同時に、モーツァルトが作曲した曲を味わうこともできる素晴らしい作品です。

 

モーツァルトのキャラを引き出す重要な登場人物がいます。それは、サリエリという人物。

 

映画だと、モーツァルトは天才的な作曲家であると同時に、女性関係に乱れ、お金にも汚く、そして酒におぼれる人物。信仰心のかけらもないように映し出されています。しかし、音楽に関しては稀代の天才というようがないほど、突き抜けています。

 

一方、サリエリは、音楽に対してあまりにも真面目であり、神を信じて疑わない信仰心熱い音楽家であります。お金、酒、女性関係に対して、あまりにも禁欲的。彼は、皇帝にピアノを教えるほど社会的地位にも恵まれた音楽家です。しかし、彼はモーツァルトの足元にも及ばないのです。そう、いわゆる凡人なのです。

 

最終的に映画では、凡人であるサリエリモーツァルトに嫉妬して、死に追い込みます。傑出した曲を生み出したモーツァルトは無残にも何にも賛美もされず雑に土葬されました。一方サリエリ、自分モーツァルトを殺してしまったということで精神的におかしくなりこれまた無残な余生を精神病棟で送ることになりました。

 

言ってしまうとサリエリモーツアルトを嫉妬してしまったが故に起きた悲劇でありました。彼はモーツァルトを死に追い込まないと気が済まなかったのです。彼の存在は決して認められないものだったのです。しかし、それもわからなくもないんですよね。もっとサリエリにも音楽の才能を授けられても良かったのかもしれませんが、そうはいかなかった。何故音楽に対してこれほどまでに忠実で真面目なサリエリには、音楽の女神は微笑まないのでしょう。何故人間として堕落したモーツァルトにだけ音楽史に残る素晴らしい曲を残せたのでしょう。

 

この映画を観て、真面目にやってる努力家は、天の才能をもつ不真面目な者には遠く及ばないという事実を突きつけられたような気がして頭ぼんやりしました。真面目な人には何も残せず、変わっている人には後世に残せるものがあるんだという事実を突きつけてきます。

 

よくよく思い返してみると、歴史に名を残した人たちって結構変わっている人たちが多いですよね。はたから見たら完全に変人です。まあ、変人だからこそ、ある意味天才の称号を手に入れ、名を残すことができるのかもしれませんが。


しかしですよ?その変わっている人になりたいかと言ったらそうあまり思えないのです。僕の中では天才=変人というイメージがしっくりくるのです。変人になった場合、人と違いすぎて僕だったら、精神的に孤独死するのが目に見えています。後、大概生きているうちは認められず、死んでから認められるパターンが多いじゃないですか?モーツアルトにしても画家のゴッホにしても。。自分は、死んでしまってから評価されたい、教科書に名を残したいという欲はありません。というか自分が死んでしまった後の自分の評価なんか興味ないし、もう関係ないと考えるから大してあこがれないんですよね。