暇なので20代をざっくりと振り返ってみる【雑記】

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最近悶々と将来のことを考えることがあります。

 

あっという間に過ぎ去ってしまった20代。それはまるで夢の如く記憶の彼方に追いやられはじめております。ちょっともったいないので、ここに書き残しておきます。

 

僕にとって20代は、様々なことがありました。

22歳ぐらい

大学を卒業しました。実は、工学部でして卒業研究をずっと研究室でしておりました。教授が変な人でしたね。毎日夜中まで研究していましたね。日本ウィルス学会でポスター発表をしました。北海道でやったので、教授とジンギスカンを食べたのを覚えております。あと、当時付き合っていた彼女がいたのですが、ボクがいつか留学をすることを伝えたら、振られてしまいました。すごくショックでずっと引きずっていましたね。留学を見据えていたので、英語をひたすら勉強をしていました。ただ、やる気がおきないときもあり、とても辛い時期でした。どんだけ勉強してもトフルやトイックのスコアが伸びず。自己肯定感が最高に低い時期でした。タバコも大量に吸って時間をつぶす、やるせない時期でした。

 

24歳~26歳

アメリカに2年間行って学位をとりました。ホームステイをしたり、アメリカ人とルームシェアしたりしました。僕のしゃべっている英語が伝わらないことがよくあったので、発音とイントネーションをひたすら勉強しました。その結果、すごくわかり易い発音で英語が話せているよっとアメリカの友人に言われるようになるぐらいまでなりました。ちなみに、この時期、アメリカの運転免許書をとるのに苦労しました。2回落ちましたね。筆記試験が最高にてこずりました。ホント試験というものが大嫌いでした。

 

ちなみに、日本人はとてもアジアの中でもてる対象だったせいか、すごいモテタ気がします。台湾人の彼女や中国人の彼女をつくり、とても謳歌しておりました。学位をとった後、アメリカで働こうと思っていたのですが、アメリカ社会になじめず断念し、日本で教師になることを決意し、帰国しました。当然、台湾人の彼女とは別れました。

 

26歳~29歳

教師になるまでの8ヶ月間、暇だったので派遣会社に申し込んで派遣社員として某販売ショップで働くことになりました。自給1500円ぐらいだったのかな。ただ、販売なんかまったく興味がなかったのです。そして、上司からの度重なる嫌味や暴言を言われて職場に行けなくなりました。派遣会社の大元に、「すいません、もう職場に行くことが出来ません。。」と電話で伝えたのは今でも覚えています。

 

教師として働き始めたのがとても印象的でした。産休代替教員として初担任をもったときは、とても緊張しました。その初めの一年は激動でいまでも忘れません。子供と衝突し、保護者と衝突し、先輩同僚と衝突し、「おとなしくで何も出来ない人」の烙印を押されました。3回ぐらい泣いた記憶があります。このころは実家ぐらしをしていました。平日は仕事、休日は特に何もすることもなかったので、お金がどんどんたまっていきました。まあ、このお金が後々の結婚の資金になるとは夢にも思わなかったんですけどね。

教員採用試験も何回も落ちました。最後28歳のとき、これで落ちたら「もう教員はやらない!」という背水の陣で望んだ結果、合格をすることが出来ました。ちなみにこのとき、学級担任をやりながら、毎晩2時間スターバックスで勉強をし続けました。人生で初めてかもしれませんね。ここまでもくもくと勉強に徹することが出来たのは。3日坊主の僕にとってはとても珍しいことだったと思います。そして、友人の紹介で、いまの嫁さんと出会いました。

 

いま思うと

仕事も結婚も20代でよくよく完結していたなあと思うのです。

そして30代。

どんな30代にしていこうか考え中です。悶々と考える前に今目の前でやりたいことをどんどんやっていきたいなあと思っています。

ボクはね、最悪教師という職業を無理につづけなくてもいいかなとすら思っているのです。別に教師じゃなくてもほかの生き方があってもいいはずなんです。一寸先は闇の世の中。安定といわれている公務員も、ずっと安定しているとは限らないです。ずっと教師という職業に対して自分自身が情熱を燃やし続けていられるかは保証はどこにもないんですよね。未来はボクらの手の中なんですよね。