挑戦することを恐れ、ただ保身にはいっている最近【雑記】

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中途半端にやると何事も中途半端になるなあと感じる今日この頃。


何事も全力でやる時、成功にしろ失敗にしろ何かドラマが生まれ、後に残るものがある。


最近というものの正直仕事に関しては、ボクは慣れてきてしまった感というのがあり、うまくこなしている。


仕事の授業作りも、生活指導も、うまーくこなしている。


ボクが感じているのは、そう、過去に学んできたものを活かして日々こなしているだけな気がしてならないのである。


過去に学んだことというのは、例えば最初に仕事をし始めた時に猛烈に怒られた時に学んだことや、子供と真剣に向き合った結果から学んだことであったり、凄い恥ずかしい失敗を犯してしまったりした時のことである。


ここ最近、最初に担任をもった時のような激動な思いをしてきただろうか。いやしてない。

何故ならいかに失敗しないで成功するかについて凄く感覚鋭く学んできたからだ。


その結果最初の時ほど失敗をあまり犯していない。担任にとって失敗するイコール即学級崩壊に繋がるという恐怖心があるだと思う。


年々仕事でうまくこなすことが出来るようになるにつれ、心は平穏に満たされるようになることは多くなったが、後に残るものは減ってきている。


これは何を意味しているのかというと、最近自分の壁を破っていない証拠なんじゃないかと感じるのである。持てる力の70パーセントを使うだけであり、そこには後に残るものがあまりないのだ。余力を残し、体力を温存しているだけなのである。一見うまくこなしているだけであって、後には何も残るような挑戦や心の葛藤をしていないのである。


当たり前と言えば当たり前のことであるし、それが仕事と言えば仕事である。


ただ、刺激をつい求めるボクにとってはつまらないことだなあと最近感じてきた。仕事が出来るようになるにつれて、刺激が減ってきているのだ。これを回避するには自分で何か行動を起こすしかない。日々壁を破る行動を。


この悶々とした思い、気持ちは何なのだろうと思い、ブログを書いていたらこんな文章を書いてしまった。


もちろん何も成し遂げていないわけではない。充分やれることはやっているとは思う。ただ自分の中で強烈な印象に残るドラマを最近作り上げたかと言えば疑い深いのだ。ドラマは時に残酷的なほど辛いものであったり、この上ないほど喜びに満ち溢れるものであったりする。ボクは若い時のようなドラマを作っていく感覚を味わっていきたいのか、それともドラマを作っていく反動から身体を壊す危険性を恐れているのだろうか。どっちをとる自分?